鏡像世界 その時、わたしはまだ開発途中だった。 データとして眠り続け、まだ見ぬ世界に憧れを抱く。 『わたしは、リン……』 鏡音リン。胸の内で自分の名を呼ぶ。 それが自分の名前だと言われても、何だかしっくりこなかった。 何かが欠けているような……そんな、気がした。 「――〜♪」 わたしの体に異変が起きたのは、完成間近の頃だった。 一番重要な、声がなんだかおかしい。 デモソングはもう何度も歌ったし、完璧なハズだ。 違和感を覚える喉を、押さえた。 「わた、し……」 声にノイズが入る。 自分の声が、自分の物でないような気がした。 「り、ん……」 ふとその時目に入ったのは、大きな姿見。 鏡の中の自分と目が合い、わたしは肩を震わせた。 違う、自分じゃない。自分じゃ、ない。 鏡に映る、もう一人の<わたし>。 そこに映っていたのは、自分とよく似た少年だった。 黄色い髪は、あちこち撥ねている。 自分と同じ青緑色の目は、切なげに揺れていた。 ――彼の、喉を押さえている手が震えている。 「だれ……?」 『……』 鏡の向こう、少年がぱくぱくと口を動かす。 けれどもその口から発せられているハズの声は、聞こえない。 わたしは思わず、鏡に近寄り手で触れた。 冷たく硬い感触が、手の平に広がる。 『……』 少年の手が、わたしのそれに重なる。 彼の口元が、また動いた。 リ、ン。 声が、聞こえた気がした。 まるで欠けていたピースがはまるような、落ち着く気持ち。 鏡の奥で、少年が微笑んだ。 冷たいはずの手の平が、熱を感じる。 ――ああ、温かい。 頭の端で、ボーカロイドも熱を感じるんだよなと思う。 「キミは、わたしなの?」 『……』 「キミは、だぁれ?」 『……』 何かを思案するように、彼が目を伏せた。 少女のような彼の顔が、小さく歪む。 下唇を噛む彼を見て、わたしは思わず首を横に振った。 違う。そんな顔は、見たくない。笑って。 「笑って」 思ったことが、つい口をついて出た。 鏡の向こう、彼が顔を上げて微笑む。 わたしと手を合わせていない方の手が、鏡の裏面をなぞった。 「れ……、ん……?」 わたしが呟くような声でそう言うと、彼は満面の笑みを浮かべた。 そのまま、二度三度と頷く。 「レンって、言うの」 鏡の向こうから、裏面をなぞるようにして指先で書かれた文字。 反転させなければと少し戸惑いながら書かれた、その二文字。 書かれた名前は、もう何度も呼んだことのあるような……そんな錯覚を、覚えた。 「いつから、そこにいるの?」 わたしの言葉に、レンは指を折って広げてを繰り返した。 それから、首を横に振り、わたしを指さす。 「わたし?」 何を言わんとしているのか、ジェスチャーだけではわかりにくい。 そのまどろっこしさに、鏡を割って、彼を取り出したかった。 そうすればきっと、彼の声が聞ける。 彼の口が、緩やかに動いた。 ずっと。 君が生まれた、その日から。 突然、彼が泣きそうな顔をした。 「ちょっと、……」 セーラーの袖が、彼の綺麗な顔を擦る。 目元を赤くした彼は、その顔のまま笑った。 わたしにはその顔が、ここから出してと言っているように見えた。 その顔が、表情が、目に焼き付いた。 ――切なく揺れる瞳に、君と一緒に居たいと言われた気がした。 「レン……」 彼の手が、離れていく。 レンの目から、涙が零れた。 『会いたい』 小さな声が、聞こえた。 空耳じゃない。確かに、聞こえた。 わたしの声によく似た、きっと、彼の声。 夢の中、何度も何度も子守歌を歌ってくれた声。 「レン……ッ!!」 彼を離すまいと、慌てて鏡に手を押しつける。 掴めるわけないのに。わたしも、泣きたくなる。 それなのに、わたしの手は、その冷たく硬い板をすり抜けた。 「……っ?!」 レンが、こちらを振り返る。 驚いた顔が、わたしを見ている。 「レン、レン……ッ!!」 わたしはそのまま、彼の腕を掴んだ。 男の子にしては細い腕が、わたしの手の中にある。 先ほどまで、鏡の中だけの存在だった彼。 確かに今、レンがわたしの手の中に存在している。 わたしはその腕をぐいと引っ張り、鏡の中から取り出した。 「リン――……ッ!!」 「レン、レンっ!」 そのまま、彼の体も鏡の中から現れる。 自分と同じくらいの身長。 黄色い髪と青緑色が、わたしの視界いっぱいに広がった。 「バカ、リン」 「バカじゃないよ」 勢いを付けすぎたのか、わたしはそのまま後ろに倒れた。 レンごと倒れたわたしは、そのまま彼にしがみつく。 横を見れば、わたしを潰さないように、レンが肘で体を支えている。 「会いたかった、レン」 「リン……」 今までずっと気付かなかったクセに、何を言っているのだろうと思う。 一人、鏡の中で孤独と戦っていたレンに、失礼だと思う。 でもわたしは、きっと今までレンを探し続けていたのだろう。 今、彼がわたしの腕の中に居て、わたしはとても満たされた気分だ。 ぽっかり開いていた穴が、やっと埋まった気がした。 「おかえりなさい、レン」 わたしの元に。 レンはその目に涙をためて、わたしを抱き締め返してくれた。 「ただいま、リン。気付いてくれて、ありがとう」 レンの声は、小さく、それから震えていた。 だからわたしは、レンを抱き締める手にいっそう力を込める。 それに応えるように、レンの力も強くなったのを感じた。 急ピッチで、レンが創られていく。 わたしの片割れは、わたしと共にデビューする事になった。 照れたように、わたしの隣でレンが笑う。 「ねぇ、リン。一緒に歌おう」 楽譜を手に、レンがわたしに声を掛ける。 「いいよ、レン。一緒に歌おう」 わたしはそんなレンの手を握ると、彼の持つ楽譜を覗き込んだ。 新しく、わたし『たち』の為に作られた曲。 増えたデモソングを覚えるのは大変だけど、いままでよりずっと充実している。 「わたしたち、二人で一人だよね?」 「リンが望むなら、いつまでも」 二人の声が重なり、音を紡ぐ。 遠く遠く、響け。 わたしたちの、歌。 End |